先日、ちらし寿司をたくさん作りました。実家の両親にもおすそ分け。
「一度に食べきれへんやろうから、冷蔵庫に入れて、また分けて食べてね」――そう言って、冷蔵庫にしまってきました。まさかあの翌朝、こんなことが起こるとは思いもしませんでした。
朝の電話「レンジの使い方が分からん、って」
翌朝、母から電話がかかってきました。
「お父さんがな、朝から”レンジの使い方が分からん”って、私を起こしてきてん」
最初は、いつもの物忘れかな、くらいに聞いていました。でも続きを聞いて、私は思わず手が止まりました。
父がレンジで温めようとしていたのは… ちらし寿司
父がレンジで温めようとしていたのは、冷蔵庫に入れておいた、あのちらし寿司だったんです。
ちらし寿司。……生ものです。
昔の父だったら、絶対にしなかったこと。お寿司を温めるなんて発想、どこにもなかった人です。その父が、当たり前のように「これ、チンしよう」としている。電話越しに、胸がきゅうっと締めつけられました。
父の認知症が始まって、もう何年も経ちます。物忘れが増えたとか、同じことを何度も聞くとか、そういう変化にはだいぶ慣れてきました。でも「お寿司を温める」という発想は、やっぱり予想していなかった。こんな小さな出来事が、じわりと胸に刺さるんです。
母の「こっそりの優しさ」に、胸が熱くなった
母は、どう対応したと思いますか?
「もう、言い出したら聞かへんからね。しょうがないから、軽めに設定してチンしといたわ」
頭ごなしに「お寿司は温めたらあかん!」とは言わなかったんです。
父は、一度こうと決めたら譲らない。正面から否定すると、かえって怒ったり混乱したりする。それを長年そばで見てきた母は、逆らわずに、こっそり「軽め」に設定して、ほんの少しだけ温めた。
その話を聞いて、私は切ないような、あったかいような、不思議な気持ちになりました。母は特別な知識があるわけじゃない。でも、何十年も一緒に暮らしてきたからこそ分かる、父のことを、ちゃんと分かってる。そのことが、うれしくて、切なくて。
看護師として思うこと ― 「否定しない」ケアの大切さ
認知症が進むと、「これは冷たいまま食べるもの」「これは温めるもの」という、当たり前だった区別が、だんだんつきにくくなっていきます。
本人は、悪気があるわけでも、ふざけているわけでもありません。ただ、見えている世界が、少しずつ変わっていくんです。
そんなとき、「違うでしょ!」と強く否定すると、本人は責められたと感じて、不安になったり興奮したりします。認知症ケアでは、これを**「否定しない」「本人の世界に合わせる」という関わり方として、専門用語ではバリデーション**とも呼ばれます。
だから母のように、危なくない範囲なら、逆らわずにそっと合わせる――これは実は、とても理にかなった対応なんです。教科書に「軽めにチンする」なんて書いてないけれど、母の知恵は、ちゃんと正解でした。
ちなみに正直に言うと、生ものを中途半端に温めるのは、食品衛生の面では本当はおすすめできません(菌が増えやすい温度になることもあるんです)。だから”軽めにチン”は、衛生的にベスト…というより、父の気持ちを否定しないための、母のとっさの優しさ。気になるときは、こっそり食べる分だけお皿に出して差し替える、なんて手もあります。
それでも、父を傷つけずに、その場をやわらかく収めた母の対応を、私はやっぱり”正解”だと思うんです。何十年も連れ添ってきたからこそ、自然にできること。すごいなぁ、と思います。
冷たいままで、いいんだよ ― でも、少し温くなっても、いいよ
冷たいままのはずだったお寿司が、ちょっとだけ温くなった。それくらい、いいじゃない、と思います。
お寿司は、本当は冷たいままでよかった。でも、それが分からなくなってしまった父のことも、「まあ、いいか」って受け止められたら――そう思えた朝でした。
親が歳をとっていくのを、こんな小さな出来事で実感する日があります。さみしいし、切ない。でも、母のこっそりの優しさみたいに、そっと受け流しながら、私たちは今日も一緒にいます。
同じような経験、ありませんか?
もし、あなたのおうちにも似たようなことがあったなら。
「あれ、なんかおかしいな」と気づいてちょっと胸が痛くなったのは、あなただけじゃありませんよ。
認知症のご家族と暮らす日々は、笑えることも、困ることも、切ないことも、全部ひっくるめて続いていきます。完璧にできなくて、いい。正解なんて、教科書通りじゃなくていい。
母みたいに、そっと「軽めにチン」するくらいの優しさで、今日もやっていきましょう。


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